2024年5月に出版された多木陽介 (編訳著)『失われた創造力へ—ブルーノ・ムナーリ、アキッレ・カスティリオーニ、エンツォ・マーリの言葉』 (80-81頁。写真) を最近読みました。20世紀半ばから後半にかけて活動した3人のイタリア人デザイナーの言葉が右頁に、「これらの言葉を現代の視点から解釈した筆者の見解」 (5頁) を左頁にそれぞれ配した見開きを単位として、本書は構成されます。
本書は、自分にとって共感するところが多く、学び多き本です。その中でも最も惹きつけられた言葉を以下に引用します。
デザインとは、一つの専門分野であるというよりは、
むしろ人文科学、テクノロジー、政治経済などについての批評能力を
個人的に身につけることから来るある態度のことなのです。
同書80頁 (写真)に載る、故アキッレ・カスティリオーニの言葉です。
多木陽介 (編訳著) 『失われた創造力へ—ブルーノ・ムナーリ、アキッレ・カスティリオーニ、エンツォ・マーリの言葉』 どく社 ISBN: 978-4-910534-04-6 価格: 3,000円 https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784910534046 |
ちょうどカスティリオーニが逝った頃、彼の考え方はデザインとデザイナーのあり方の本質に当たると思うと友人に教わり、確かにそうだと感じ、以来そのことを忘れずにいました。ただし、上に引用した言葉を読むのは初めてでした。彼の考え方に初めてふれてからおよそ20年が経つ今、新たに示唆に富む言葉に出逢うことができて、非常に嬉しく思います。
編訳著者は、こう書いています。「彼らの仕事は、倫理性と社会性に富み、企業の利益よりも社会性のある創造 (中略) を使命とし、その後の消費主義社会のためのデザインとは全く相容れない性格をもっていた」 (3頁)
日本においても、デザイナーを名乗る人々の「人文科学、テクノロジー、政治経済などについての批評能力を個人的に身につけること」の不足から、本人はどう「社会のためのデザインを」と言おうとも、その仕事は「消費主義社会のためのデザイン」に陥ってしまうという例が、顕著に見られると感じています。
私たちは職業を通してしか社会とつながっていないわけではなく、むしろ市民として、民主主義社会に生きる主権者としての責任を他人任せにせずまず全うしようと努めなければなりません。私は、与党による政治が対米従属と政財界の利権差配にほぼ等しいかのような現在の日本社会は、根本のところで、商行為としてのデザインでどうにかできる状況にはないと受け止めています。それゆえ、いくつかの情報媒体を通して時々発信してきているように社会運動に参加し、デザイナーとして行える社会的行動を発想し実行してきています。
そして、さまざまな社会運動に参加しながら、政治や社会の問題から目を逸らしたり安直に対したりせず積極的に関係を持とうとし続けることで「批評能力」を獲得し向上する人々も、私よりずっと若い世代を中心に増えてきていると実感しています。
編訳著者による以下の言葉は、今、私が目にしている日本の状況にも当てはまると思います。「それまであまり見かけることのなかった新しい職能とともに、 (中略) 非資本主義的な態度と価値観を身につけて活動する人びとが、建築やデザインだけではなく、教育、経済、政治、環境、国際支援、芸術、演劇、金融、食、農業、福祉、医療、まちづくり、その他、実に多くの分野において (まだまだマイノリティではあるが) 登場してきている。現代社会の病み、傷んだ創造力を治癒・修復しに来たかのように、歴史が一度忘れたある創造力が蘇りはじめていると言えるだろう」 (3-4頁)
「非資本主義的な態度と価値観」に私は共感しますが、それは、絶えず利潤を求め、資本を増やし、経済成長を図ることが可能という幻想 (自然資本を減じれば経済ひいては人間生存は持続不可能になります) に囚われて労働者や自然からの搾取を続ける、他者の犠牲の上に成り立つ社会構造を批判し、変革しようとすることではないかと、今は考えています。自身、自己批判と改善の努力が足りてはいませんが。
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参照: 国際津波防災学会公開検討会発表スライド「生態系を基盤とした防災・減災の実現に向けた総合科学的課題」
私もまた、「消費主義社会のためのデザイン」に対する批判と、本質的なデザインの可能性追求を、研究と実践を通じて続けてみたいと思います。
(短文ではありますが) 結びにかえて
編訳著者のお父様は、私の大学時代のゼミの恩師でもあります。恩師からも本書の編訳著者からも、自分の学びと生き方にかかわる重要な示唆を受けていることに、感謝の念を覚えます。