ラベル 生態系を基盤とした防災・減災の伝統的生態学的知識に基づく参考例/ Examples of construction based on traditional ecological knowledge for Eco-DRR の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2016/09/12

木野部海岸視察 2016/08/26 (青森県むつ市大畑町) An inspection tour of the Kinoppu Coast, Ohata Town, Mutsu City, Aomori Prefecture, August 26, 2016






2016年8月26日に下北半島の木野部海岸を訪ねました。
岩海苔や布海苔、アワビなどの・採漁業ができるの環境・景観を再生しようと、
波と磯 (山から石を切り出して磯を造成し魚貝の採取が可能な場をつくる伝統工法) を兼ね
磯工が行われた海岸です
は、地形的に前浜で波力が減衰され、その上に分散させた石の群が波力に抵抗し、
ある程度まで成り立ちます。 
 
この例の特徴として、大きく次の4点が挙げられます。

1点目スイス、ドイツで開発された生態学的な河川工法、
「近自然河川工法 (Naturnaher Wasserbau) 海岸で応用されていることです。
2点目は、 一度整備された緩傾斜護岸を取り壊し、それによって発生したコンクリート塊を
岩石の群の下に敷いて (基礎に転用し) 、置磯工がほどこされていることです。 
3点目は、この工事が自然の中に人々の生活とその環境置き直す
まちづくりプラン (都市計画マスタープラン) の作成と並行して進められ、
当地の将来計画における先導的、そして象徴的な意味を持つに至ったことです。
そして4点目は、竣工後この土木構造物の周囲における生態系の変化に関し
追跡調査が続けられていることです。 
岩海苔や布海苔、アワビなどの・採漁業行えるの環境・景観は、再生されています。

この伝統の継承・進展と科学の総合を独創的発想によって可能とした海岸工法から
はどうしてもある伝承を思い出さずにいられません。
それは、気仙沼市本吉町前浜地区で土地の方々に教わった「テナガ様」の伝承です。
手長山のテナガ様が、長い手を伸ばして海から魚や貝をさらっていく…
それに対して浜の人々はアワビなどを手長山の頂きに供えて、山の恵みによる磯の恵みを、
山へ返すことをしてきた、それでまた山の恵みから磯の恵みを、
の人々が受けられるように図ってきた、そう解釈されるものです。

私には、前浜地区でいうテナガサマ、多くの地域でいうダイダラボッチが
山から長い手を伸ばして緩傾斜護岸を引きちぎり
その破片を海に撒いて磯を戻した、そして山の恵みと海の恵みの巡る土地の一部として
木野部海岸を再生しようとした…
そのように、このすぐれた市民、行政担当者、研究者、技術者による協働から連想をしてしまいます。

全国の海岸で、いえ海岸の他にも河川で、あるいは農村や、都市の一部であったとしても、
防災・減災と生物多様性保全、および生業の復興を同時に充たした木野部海岸のこの例から、
さまざまに学べるはずであると、私は考えます。 

追記
井上靖の小説『海峡』に、登場人物が大畑町から八里先の大間崎へ移動する途中に見た
風景の描写があります。
かつての木野部海岸と周辺の様子がおわかりいただけるかと思いますので、引用をしてみます。 



バスは海岸へ出て、海岸線に沿って 走り出した。雪は落ちているが、空は青く澄んでいて、
海面は不気味なほど静かであった。
バスはのろのろ走った。道は海岸に迫っている丘の中腹や、断崖の裾を、屈曲の多い海岸線と平行に
どこまでも走っている。  
杉原は窓外にばかり視線を投げていた。裸木の梢の間から青い海面が見えたり、
ゆるやかなスロープを持つ砂浜の向うに、波の砕けている荒磯が見えたりした。
波打ち際には褐色の巨石がごろごろしていて、どの石も波に洗われ、上部には白い雪を載せている。(中略)


やがて海岸は一面に大小の岩がごろごろしている荒磯になると、その荒磯はどこまでも続いた。
そしてバスの通っている道路の横には雪の面から茅のようなハコネウツギが顔を覗かせている。
波は沖にだけ立っている。  井上靖『海峡』(角川書店、1961年。原著発行 1958年) 321-322頁



参照/ Reference:

(近自然工法/ Naturnaher Wasserbau)
福留脩文 (2010)「近自然河川工法の計画視点
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jriet1972/23/9/23_9_535/_article/-char/ja/
 

(木野部海岸/ Kinoppu Coast)
宇多高明ほか (2000)「
住民合意型海岸事業の推進手法 − 青森県大畑町木野部海岸での新しい試み」
Promoting method of coastal works with public agreement: a new approach at Kinoppu Coast in Ohata Town, Aomori Prefecture

https://www.jstage.jst.go.jp/article/prooe1986/16/0/16_0_523/_article
清野聡子ほか (2001)「
青森県木野部海岸における合意形成と海岸事業の実施」
Public agreement at Kinoppu Coast in Aomori Prefecture and enforcement of coastal works
http://ci.nii.ac.jp/naid/130003949879/
角本孝夫ほか (2002)「合意形成型海岸事業と環境復元の課題 − 青森県大畑町木野部海岸を例として」
 
Problems in public involvement on beach management and construction planning, 
and coastal environment restration as an example of Kinoppu Beach, Ohata Town, Aomori Prefecture
https://www.jstage.jst.go.jp/article/prooe1986/18/0/18_0_19/_article
鈴木俊治ほか (2003)「自然に『胎棲』するまちづくり: 大畑まちづくりプラン (都市計画マスタープラン) の特徴と意義」
For a hospitable environment and revitalization in the mother nature: the character and significance of the comprehensive plan, Town of Ohata

http://www.cpij.or.jp/com/ac/report/2003.html
里浜づくり研究会 (2003)「2.3 木野部海岸」『里浜づくりのみちしるべ』(国土交通省、PDF)
http://www.mlit.go.jp/kowan/umibe_bunka/satohama/18/main2-3.pdf

土木学会デザイン賞 2006/ Civil engineering design grand prize 2006, JSCE: Japanese Society of Civil Enginieers
https://www.jsce.or.jp/committee/lsd/prize/2006/works/2006g1.html

Good Design Award 2007: The Kinoppu Coast Project − Wave-shaped construction vitalize the people
http://www.g-mark.org/award/describe/33790


(テナガサマ伝承)
千葉一 (2015)「『海と生きる』− 順応的復興の模索」 『地域構想学研究教育報告』6 (東北学院大学、PDF)
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/faculty/liberalarts/regional/pdf/2015_1chiba.pdf






















2014/01/01

南湖に遊ぶ Nanko park* Stroll in Shirakawa City, Fukushima *South lake park was completed in 1801 as Japan's first park




南湖西岸から東側を望む

























  前夜から昼にかけての雨もあがり、空は夕刻の訪れを前にして澄み切っていた。岸辺から少し離れた共楽亭の傍らに腰掛けて南湖を見やると、対岸のアカマツの樹立の後ろに関山がくっきりと浮かび上がっている。木々の新芽の萌黄色と、山桜の淡い朱と、二色の綿帽子が入り混じったかのような五月の高原の装いが目に心地よい。


 寛政の改革を終え、幕府老中から再び白河藩主に戻った松平定信が、この南湖を築造したのは享和元年 (1801) 4月のことである。今からおよそ200年前まで、この地は沼の水が自然に干されて生じた湿原だった。

 18世紀半ばから産業革命が起きて以来、アメリカの独立、フランス革命と、時代は近代化、民主化に向けて大きく動きだしていた。その一方で欧州諸国によるアジア各地での権益争いは激しさを増し、そのことは鎖国下の日本にも聞こえてきていた。


 定信は忍び寄る脅威を感じていた。そして、一度は倹約令により飢饉と貧困を乗り切った藩内で、経済安定に向けてのより積極的な対応が求められてもいた。


 南湖築造は、それら諸々の問題を解決する切り札の一つであった。寛政13年 (1800) の秋に着手された普請は、雇用の機会を求める者たちを救済した。湖水は灌漑用水を兼ね、後年には新田開発に結びつけられて、その利潤は藩校立教館の運営にも活かされた。広大な水面は、藩兵の水練と船の操縦術訓練の場となり、魚介の養殖にも供せられた。海の無い白河藩にとって人造湖がいかに貴重であったかは想像するに難くない。




南湖東岸の堤「千代の松原」から西側の御影島を見る
































 そして、池水を主題としながらあくまでも自然な趣を大切に作庭されたこの湖は、士農工商という身分制度の確立された封建社会にあって、市井の人々が自由に出入りする初めての庭園となった。湖畔の共楽亭も、時を同じくして建てられた公共の茶室で、「四 (士) 民共楽」という理想を表すべくその名がつけられた。市民の動きに端を発し実現した、近代公園の祖とされるニューヨークのセントラルパークが誕生する半世紀余り前のことである。


湖畔に建てられた公共の茶室「共楽亭」
  































 幼少から書や画に親しんだ定信は、作庭理論にも通じていたという。その居城、小峰城三の丸の三郭四園や江戸は築地の下屋敷につくられた浴恩園ほかが、南湖とともに彼の作として伝わっている。後方の山並みを背景に取り込む「借景」や、自由に巡り楽しむ庭ということで「廻遊式」と名づけられた伝統技法を用いながらも、南湖はいわゆる日本庭園とは違って、瀟洒な高原の湖の姿をなしている。形式に陥ることなく、白河の地の風物一つひとつへ丹念に光をあてて、それらの良さを作庭に生かしていった結果であろう。


小峰城の内堀 (手前) と外堀の分岐点。外堀は阿武隈川の旧河道







































 赤松の林と水辺の葦の茂みを基調に、山桜や大紅葉が水辺に配された風景は、素朴でありながら風雅な佇まいを醸しもする。高原の空気の、涼しくやや乾いた肌触りもこれを手伝っている。作り手の奥床しさ、そして権力者自らのためだけの閉ざされた庭園でなく公園として広く開放された場であることもその清々しさの源にあろう。

  
 半年間の普請で完成を見た湖には、城の南に位置することと合わせ、彼が好んだ李白の詩にちなむ「南湖」の名がつけられた。



  南湖秋水夜無煙

  耐可乗流直上天

  且就洞庭借月色

  将船買酒白雲邊



 放浪の詩人李白が、その晩年に中国第一の湖、洞庭湖で残した詩である。「南湖の秋の夜空はよく晴れ渡っている。流れに乗じて天にも上れそうであるが、辺りの景色が余りにも美しすぎてそれもできそうにない。しばらくこの洞庭湖で月の眺めと語り合ってから、船を出し、酒を求め、湖面と空がとけあった先の白雲のほとりに居よう」。



 旅と酒、そして月を愛したという詩人は、優れた景色を言葉で言い当てることだけに満足しなかった。山水の素晴らしさに、人間の想像力が伴う瞬間を体験することこそ、彼にとっての幸福であり、崇高なもの、そして詩作であったのだろう。だから、彼の詩には、他の唐詩にも増して行間に限りない深みがあるのだと思う。雨上がりの道端で、水たまりに映る景色を覗いた時の、その中の世界に吸い込まれそうな感じにも似た…。



 空を飛ぶ鴨の鳴き声にそんな妄想を断ち切られる。再び湖畔に降りて、人々でにぎわう北岸に向かって歩く。松の葉がこすれあう音と、岸辺にあたる細波のかすかな響きが、湖を渡る風とともに身体を包み込む。



福島縣白河町真景図 (1926) を廣瀬模写。南湖の全容が描かれる






 
秋景。アカマツ (Pinus densiflora) の幹にマツカレハ (Dendrolimus spectabilis) の幼虫を除く菰巻きがなされる




















































 赤松の林にはいつしか夕陽が差し込んでいる。木々の太陽を向いた側は燃えるように紅く、陰となった側は黒々と濃く深く見える。湖面に反射する光が揺らぎを与え、紅と黒の相克を際立たせる。高原の湖が生命の炎をたぎらせる、まさにその瞬間に立ち会っているかのように思う。



 ボートを漕ぎ、釣りに興じ、カフェや食堂で語らう家族や友人、恋人たちの生き生きとした様を眺めていると、人と場所の親しい結びつきが、200年も前から変わらず続けられているのではないかと率直に感じる。木々が育ち、石が苔生して、長い時の経過が確かに刻み込まれてゆく中、この関係はさらに引き継がれるのだろう。そして、互いに写真を撮りあう家族を見て、カメラの写し手を買って出てしまう自分もまた、この場所に感化されていると気づく。



 人々は、風景の中の「行間」を無意識のうちに読みこなすかのように、想像力をはたらかせ、自らを南湖の風景に投じている。それぞれの時間、それぞれの愉しみを創りだしている。訪れる人の数だけの姿と価値ができあがる庭園、人々の思いを受けとめて風景を豊かなものとしてゆく場所、ここはまさしく「公園」である。




南岸から千代の松原を見る。東アジア原産の外来魚カムルチー (Channa argus) の繁殖などの問題もある



 




























南湖に注ぐ水路。コンクリート護岸が設けられたが底に砂が溜るなど環境的変化が多少…




































出水口のある花月橋の下に管理艇が下げられているのを見つける
































 定信を祭神とする南湖神社で御神酒の振る舞いを受けて後、傍らの茶室に目をやる。彼が愛し、「蔦の葉を透かして見る月」という意味で名づけた、この蘿月庵にも夕陽の手が伸びていた。彼が家老の邸内につくらせ、後に境内に移築された茶室である。享和2年8月、定信はこの庵の水盥の表に「蘿月」の二字を書き、裏にはこう記した。「壬戊秋八月、ここに来たりてこれを書すことに蚯蚓のごとし、人の笑はんことをそこの月たが笑ふともおけやおけ」。享和2年8月ここへ来て書いた。みみずのような字だ。人は笑うだろうが、水に映る月よ、そして水底の月も、誰が笑うともかまわずにおきなさい。彼もまた、月を好んだ一人だった。



 太陽は山の端にさしかかる手前である。幾分かやわらいだ光線が、庵の茅葺き屋根といわず、参道にかかる大鳥居といわず、辺りを橙の一色に染めていた。日暮れまでにはもう少し時間がある。すぐに石段を下りて、湖畔の赤松林を今一度眺め、この目に焼きつけておきたいと思う。


(初出: ヤマキノ・アートメディア事業部編『アートネットアカデミー』アテネ書房、1997年)



追記

 李白の詩の解釈については、静岡文化芸術大学デザイン学科教授を務める佐井国夫氏にご指導をいただきました。