2014/01/01

南湖に遊ぶ Nanko park* Stroll in Shirakawa City, Fukushima *South lake park was completed in 1801 as Japan's first park




南湖西岸から東側を望む

























  前夜から昼にかけての雨もあがり、空は夕刻の訪れを前にして澄み切っていた。岸辺から少し離れた共楽亭の傍らに腰掛けて南湖を見やると、対岸のアカマツの樹立の後ろに関山がくっきりと浮かび上がっている。木々の新芽の萌黄色と、山桜の淡い朱と、二色の綿帽子が入り混じったかのような五月の高原の装いが目に心地よい。


 寛政の改革を終え、幕府老中から再び白河藩主に戻った松平定信が、この南湖を築造したのは享和元年 (1801) 4月のことである。今からおよそ200年前まで、この地は沼の水が自然に干されて生じた湿原だった。

 18世紀半ばから産業革命が起きて以来、アメリカの独立、フランス革命と、時代は近代化、民主化に向けて大きく動きだしていた。その一方で欧州諸国によるアジア各地での権益争いは激しさを増し、そのことは鎖国下の日本にも聞こえてきていた。


 定信は忍び寄る脅威を感じていた。そして、一度は倹約令により飢饉と貧困を乗り切った藩内で、経済安定に向けてのより積極的な対応が求められてもいた。


 南湖築造は、それら諸々の問題を解決する切り札の一つであった。寛政13年 (1800) の秋に着手された普請は、雇用の機会を求める者たちを救済した。湖水は灌漑用水を兼ね、後年には新田開発に結びつけられて、その利潤は藩校立教館の運営にも活かされた。広大な水面は、藩兵の水練と船の操縦術訓練の場となり、魚介の養殖にも供せられた。海の無い白河藩にとって人造湖がいかに貴重であったかは想像するに難くない。




南湖東岸の堤「千代の松原」から西側の御影島を見る
































 そして、池水を主題としながらあくまでも自然な趣を大切に作庭されたこの湖は、士農工商という身分制度の確立された封建社会にあって、市井の人々が自由に出入りする初めての庭園となった。湖畔の共楽亭も、時を同じくして建てられた公共の茶室で、「四 (士) 民共楽」という理想を表すべくその名がつけられた。市民の動きに端を発し実現した、近代公園の祖とされるニューヨークのセントラルパークが誕生する半世紀余り前のことである。


湖畔に建てられた公共の茶室「共楽亭」
  































 幼少から書や画に親しんだ定信は、作庭理論にも通じていたという。その居城、小峰城三の丸の三郭四園や江戸は築地の下屋敷につくられた浴恩園ほかが、南湖とともに彼の作として伝わっている。後方の山並みを背景に取り込む「借景」や、自由に巡り楽しむ庭ということで「廻遊式」と名づけられた伝統技法を用いながらも、南湖はいわゆる日本庭園とは違って、瀟洒な高原の湖の姿をなしている。形式に陥ることなく、白河の地の風物一つひとつへ丹念に光をあてて、それらの良さを作庭に生かしていった結果であろう。


小峰城の内堀 (手前) と外堀の分岐点。外堀は阿武隈川の旧河道







































 赤松の林と水辺の葦の茂みを基調に、山桜や大紅葉が水辺に配された風景は、素朴でありながら風雅な佇まいを醸しもする。高原の空気の、涼しくやや乾いた肌触りもこれを手伝っている。作り手の奥床しさ、そして権力者自らのためだけの閉ざされた庭園でなく公園として広く開放された場であることもその清々しさの源にあろう。

  
 半年間の普請で完成を見た湖には、城の南に位置することと合わせ、彼が好んだ李白の詩にちなむ「南湖」の名がつけられた。



  南湖秋水夜無煙

  耐可乗流直上天

  且就洞庭借月色

  将船買酒白雲邊



 放浪の詩人李白が、その晩年に中国第一の湖、洞庭湖で残した詩である。「南湖の秋の夜空はよく晴れ渡っている。流れに乗じて天にも上れそうであるが、辺りの景色が余りにも美しすぎてそれもできそうにない。しばらくこの洞庭湖で月の眺めと語り合ってから、船を出し、酒を求め、湖面と空がとけあった先の白雲のほとりに居よう」。



 旅と酒、そして月を愛したという詩人は、優れた景色を言葉で言い当てることだけに満足しなかった。山水の素晴らしさに、人間の想像力が伴う瞬間を体験することこそ、彼にとっての幸福であり、崇高なもの、そして詩作であったのだろう。だから、彼の詩には、他の唐詩にも増して行間に限りない深みがあるのだと思う。雨上がりの道端で、水たまりに映る景色を覗いた時の、その中の世界に吸い込まれそうな感じにも似た…。



 空を飛ぶ鴨の鳴き声にそんな妄想を断ち切られる。再び湖畔に降りて、人々でにぎわう北岸に向かって歩く。松の葉がこすれあう音と、岸辺にあたる細波のかすかな響きが、湖を渡る風とともに身体を包み込む。



福島縣白河町真景図 (1926) を廣瀬模写。南湖の全容が描かれる






 
秋景。アカマツ (Pinus densiflora) の幹にマツカレハ (Dendrolimus spectabilis) の幼虫を除く菰巻きがなされる




















































 赤松の林にはいつしか夕陽が差し込んでいる。木々の太陽を向いた側は燃えるように紅く、陰となった側は黒々と濃く深く見える。湖面に反射する光が揺らぎを与え、紅と黒の相克を際立たせる。高原の湖が生命の炎をたぎらせる、まさにその瞬間に立ち会っているかのように思う。



 ボートを漕ぎ、釣りに興じ、カフェや食堂で語らう家族や友人、恋人たちの生き生きとした様を眺めていると、人と場所の親しい結びつきが、200年も前から変わらず続けられているのではないかと率直に感じる。木々が育ち、石が苔生して、長い時の経過が確かに刻み込まれてゆく中、この関係はさらに引き継がれるのだろう。そして、互いに写真を撮りあう家族を見て、カメラの写し手を買って出てしまう自分もまた、この場所に感化されていると気づく。



 人々は、風景の中の「行間」を無意識のうちに読みこなすかのように、想像力をはたらかせ、自らを南湖の風景に投じている。それぞれの時間、それぞれの愉しみを創りだしている。訪れる人の数だけの姿と価値ができあがる庭園、人々の思いを受けとめて風景を豊かなものとしてゆく場所、ここはまさしく「公園」である。




南岸から千代の松原を見る。東アジア原産の外来魚カムルチー (Channa argus) の繁殖などの問題もある



 




























南湖に注ぐ水路。コンクリート護岸が設けられたが底に砂が溜るなど環境的変化が多少…




































出水口のある花月橋の下に管理艇が下げられているのを見つける
































 定信を祭神とする南湖神社で御神酒の振る舞いを受けて後、傍らの茶室に目をやる。彼が愛し、「蔦の葉を透かして見る月」という意味で名づけた、この蘿月庵にも夕陽の手が伸びていた。彼が家老の邸内につくらせ、後に境内に移築された茶室である。享和2年8月、定信はこの庵の水盥の表に「蘿月」の二字を書き、裏にはこう記した。「壬戊秋八月、ここに来たりてこれを書すことに蚯蚓のごとし、人の笑はんことをそこの月たが笑ふともおけやおけ」。享和2年8月ここへ来て書いた。みみずのような字だ。人は笑うだろうが、水に映る月よ、そして水底の月も、誰が笑うともかまわずにおきなさい。彼もまた、月を好んだ一人だった。



 太陽は山の端にさしかかる手前である。幾分かやわらいだ光線が、庵の茅葺き屋根といわず、参道にかかる大鳥居といわず、辺りを橙の一色に染めていた。日暮れまでにはもう少し時間がある。すぐに石段を下りて、湖畔の赤松林を今一度眺め、この目に焼きつけておきたいと思う。


(初出: ヤマキノ・アートメディア事業部編『アートネットアカデミー』アテネ書房、1997年)



追記

 李白の詩の解釈については、静岡文化芸術大学デザイン学科教授を務める佐井国夫氏にご指導をいただきました。