2023年12月17日から21日にかけて、私が参加する栃木県益子町の地域コミュニティ・ヒジノワと台湾は桃園市大渓区の生活工芸拠点・C House溪房子 (陳美霞代表) 1)との「勝手姉妹郷」2)プロジェクトの一環として、大渓を初めて訪ねました (写真1、2) 。同区は桃園市の中央部に位置し、面積105,1206 km2、人口94,648人 (2023年11月現在) を擁します。
写真1 中山路 (新南老街) の夜景。2023/12/17 |
写真2 和平路 (和平老街) の朝。2023/12/18 |
大渓では、歴史的な町並みを留めた街区、地区を指す「老街」の一つ、大渓老街と、その保存・再生を合わせて当地の「木材産業と人々の生活文化の保存、記録を続け、普及を図り、大渓を壁のない博物館としてゆくこと」を目的に、2015年3月28日から活動する桃園市立大渓木藝生態博物館3)を中心に案内いただきました (写真3) 。
写真3 「大渓木藝生態博物館パンフレット」日本語版。くわしくは、桃園市立木藝生態博物館ウェブサイト「博物館舎分布 (館舎として保存・活用される建物の群と老街の位置が示される)」 https://wem.tycg.gov.tw/home.jsp?id=6&parentpath=0,1 |
大渓は、台北市街を貫いて流れる大河、淡水河の三大支流に当たる大漢渓に面しています (図1) 。清朝の時代には河口の淡水港と大渓を両端とする範囲で水運が行われ、当初は上流域の復興区に産する茶、樟脳、木材などが貿易のために運び出されました4)。その後、大陸から移り住んだ富家が福建省泉洲から名高い職人を招聘して邸宅を建てましたが、定住した人々を始祖として、大渓に集積したさまざまな樹木を用い、気候が適していた漆の塗装を組み合わせるなどしながら、机、椅子、箪笥といった日常の家具から婚礼のための注文家具までがつくられるようになり、木器産業が確立されていったといいます。また、この中で大陸の工芸技術が台湾の当地に適合したものに発展されていったと、文献にあります5)。
図1 大漢渓流域を中心に表示した地形図。中央研究院人社中心GIS專題中心 (2020). [online] 臺灣百年歷史地圖. Available at: https://gissrv4.sinica.edu.tw/gis/twhgis/ [2023-12-23参照]. |
1895 (明治28) 年から1945 (昭和20) 年まで、日本は台湾で植民地統治を行いました。日本政府は、日本本土での台湾の全資源の活用を意図して地場産業推進計画を実施し、大渓の木器産業に対しては日本本土から意匠、漆塗装、木工芸技術などを投入して発展を促しました6)。
1900 (明治33) 年、日本政府は「台湾家屋建築規則」を制定して市区改正に着手し、建築、都市の改造を進めました。同化政策の拠点とした教育施設、神社や監獄などが整備されると共に、街路に沿って連なる店舗併用住宅群の建設が先導されてゆきました。店舗前には、屋根のある歩廊、亭仔脚が設けられました。この亭仔脚は、強い陽射しや雨を遮るために台湾でよく用いられてきたもので、その保持、普及が同規則によって促されたといいます6)。このようにして整えられた町並みが、老街と呼ばれることになったとのことです7)。
桃園市は、2015年に大渓木藝生態博物館を開設して、日本統治期に建てられた建築群の修復を順次進め、2020-2021年には和平路、中山路 (新南) 、中央路の老街を「大渓好生活 (暮らしやすい大渓) 」とのコンセプトに基づいて修復、改修しています8) 。暮らしやすい大渓は、当地の自然・歴史地理に則して、清朝の時代以来の木器産業、木藝の復興、発展を中心にすえながらめざされています。日本統治期の建築群は、木藝生態博物館の館舎として木生活館/木家具館、工芸基地や工芸交流館に転用され (写真4) 、老街では生鮮食品、加工食品、野菜苗、衣類、家電品、家具、工芸品、書籍などを扱う商店、コンビニエントストアから茶房、食堂、民宿、銀行までが営まれ (写真5) 、生き生きとした暮らしと生業の場がかたちづくられています。
台北市をはじめとする周辺地域から日帰り観光に訪れる人々が多いという当地ですが、いわゆる古い町並みを残しながらその中は土産物店ばかりとなって生活感が喪失され、歴史が形骸化して感じられる、日本にしばしば見当たる観光地の経営とは一線を画しているように思われます。実際、檐 (のき) 下の歩道は雨の日にも歩きやすく、沿道の店々からは活気が伝わり、人間的な生活空間にして商空間であるとの印象を受けました。
写真4 桃園市立大渓木藝生態博物館の工芸基地 |
写真5 亭仔脚の内側の食堂から中央路 (中央老街) を見る。2023/12/18 |
大渓木藝生態博物館の「生態博物館」は、1960年代にフランスで創始されたエコミュゼ (Écomusée。生活環境博物館) 9)の参照に基づいて構想されました。同館の館長のお話では、フランスの事例も視察に赴き参考にしたが、その上で大渓では自然・歴史地理に則し、木器産業、木藝の継承、復興、発展を中心にすえて、「木藝生態博物館というコンセプトを設定した」とのことでした。同館の活動は、建築群の正確な保存を基本として、それらの周囲に人々が戸外の居間や歩廊のように使える空間を作り足すことを徹底して行い、そうした施設整備と共に人々の生活文化から木藝までが引き継がれてゆくように展示や工芸教室の運営などのさまざまな機会の提供が行われています。
さらに興味深いと感じたのは、木藝生態博物館の呼びかけに応じた民間パートナーが「街角館」として協力をしていることです。街角館は現在32あり、それらは地域の旅行代理店、家具店、豆食その他の伝統的な加工食品の店、カフェ、書店、民宿、木工や陶芸の工房、農場、料理教室等々、多彩です10)。
私たちヒジノワのメンバーは、C House溪房子の陳代表に紹介をいただいて、街角館の一つである民宿「新南12 文創実験商行」に滞在しました。ここでは、中山路 (新南) に面した二階建ての建物が民宿のフロントとカフェに、その奥に中庭を挟んで建つ建物の一階が書店、二階が宿泊室に、さらにその奥の中庭を挟んで建つ建物がオーナーの住居として、それぞれオーナー自身の改修によって利用されていました (写真6、7)。カフェの2階では、市民の勉強会やワークショップが開かれることもあるそうです。書店は、地域、環境、コミュニティ、文化、食などに関した本を選んで置いているとのことでした。
写真6 新南21 文創実験商行の宿泊棟から中庭ごしに見たカフェ棟。2023/12/18 |
写真7 新南21 文創実験商行のカフェ棟天井見上げ。煉瓦組積造の壁に木造の屋根架構が載せられる。2023/12/18 |
木藝生態博物館は街角館を、「物語の登場人物が自分で語る物語」を通して実際に「地域の知識や生活に関するサービスを提供」し、「大渓の豊かな産業、文化、生活の様子を紹介」する場としています11)。
街に住む方にお話を伺うと、大渓木藝生態博物館とは「点と点を結んでつくる、まちあるき博物館」なのだと説明してくださいました。台湾の伝統的な住居を修復して料理教室を営み、街角館とする方が、「この場所がなければ (伝統的米食文化を継承する意義が) 伝えられない」 と話されていたことも心に強く刻まれました (写真8) 。
写真8 「コ」の字形の三合院形式で建てられた伝統的な住居で営まれる雙口呂文化厨房 。2023/12/18 |
このように、自然の営みに人の営みが重ねられてできた土地の歴史を、同じ地で今を生きる人々が共に連綿と引き継いでゆこうとされている中に浸ることがなんとも心地好く感じられた、初めての大渓行でした。自然の営みと人々の営みが折り重なって感じられる大渓という街の趣から、私はポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「題はなくてもいい」という詩に用いられた「刺繍」という、ある土地なり世界なりの喩えを思い出しました12)。
この「刺繍」は、「色々な事情を縫いこんだ」ものとしてできていると、シンボルスカはいいます。実際、生きていると色々な事情に出逢います。すべてとはいかなくとも、できるだけそれら一つひとつから目を背けることなく真剣に向き合ってゆくことで、人生を豊かに生きることが可能となるのではないでしょうか。そして、この街にそう生きる人々が数多くいることの表れが、その趣であり風景であると感じました。
シンボルスカの同じ詩に、「束の間の一瞬でさえも豊かな過去を持っている」という一節があります。大渓で出逢った人々は、「豊かな過去」を未来につないでいると思います。
注:
1) C House 溪房子 http://www.chouse.life/
2) ローカル系文化研究者、蔡 奕屏氏と台湾の雑誌『地味手帖』と共同で行う、台湾と日本の地域を結ぶ民間を促す活動。
参照: 交流地域編集室簑田理香事務所|勝手姉妹郷プロジェクト(1) 台湾 大渓工藝週「DAXI CRAFT WEEK」 への招聘・参加 2022/11
http://editorialyabucozy.jp/sociological/3068#more-3068
3) 桃園市立大渓木藝生態博物館 https://wem.tycg.gov.tw/index.jsp
4) 同上「大渓木藝生態博物館パンフレット」日本語版
5) 黄 淑芬・翁 徐得・宮崎 清 (1997) 「台湾大渓地域の木器産業の展開: 地域生活を写す『鏡』としての地場産業のあり方を求めて」
『日本デザイン学会研究発表大会概要集』44: 21頁 DOI https://doi.org/10.11247/jssd.44.0_21
6) 黄 蘭翔 (1992) 「日本植民初期における台湾の市区改正に関する考察」『都市計画論文集』27: 13-18頁
DOI https://doi.org/10.11361/journalcpij.27.13
7) 西川博美・中川 理 (2014) 「日本統治期の台湾の地方小都市における亭仔脚の町並みの普及」『日本建築学会計画系論文集』79 (700): 1459-1468頁
DOI https://doi.org/10.3130/aija.79.1459
8) 中華民国 (台湾) 外交部「桃園市大溪の古い街並み、『騎楼』と『牌楼』の修繕工事が年末に完了」『Taiwan Today』 (2021/06/03)
https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=148,149,150,151,152&post=201464 (2023-12-23参照)
9) 藤村好美 (2005) 「エコミュージアムと協同のまちづくり」『日本学習社会学会年報』1: 33-34頁
DOI https://doi.org/10.32308/gakusyusyakai.1.0_33
10) 桃園市立大渓博物館「This is Daxi」日本語版
https://wem.tycg.gov.tw/home.jsp?id=7&parentpath=0,1
11) 桃園市立大渓木藝生態博物館「大渓木藝生態博物館パンフレット」日本語版
12) ヴィスワヴァ・シンボルスカ (1997) 『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、2002年改訂
http://www.michitani.com/books/ISBN4-915841-51-0.html