2013/04/12

広村堤防視察 2012/11/04 (和歌山県有田郡広川町) An inspection tour of Hiromura levee, Hirokawa, Wakayama 04/11/2012



安政元年(1854)の津波来週時、濱口梧陵は稲むらに火を放って暗闇の中で逃げ遅れていた村人たちを
高台の広八幡神社へ導き、助けました。

この梧陵が、次の津波来週に備えるのと家財を失った村人の仕事をつくるのを併せ、 
私費を投じて築造したのが広村堤防(和歌山県有田郡広川町)です。
昭和21年(1946)、昭和南海地震が当地を襲いますが、
広村堤防はその外側の広川と江上川河口部にあたる平地に津波を分けて、町を護ります。
この時も亡くなられた方々がいましたが、河口部の平地に拓かれた水田を工場用地に転換していたために
被害があり、その危険を今村明恒博士(地震学)が町の人々へ事前に伝えていました。

また、史料が見つけられていないからか昭和の被害を築堤上の不備のように見る向きもあるようですが、
東端は資金難等で広川の堤防に連続されなかったものの、西端は当初から江上川堤防に連続させず、
周囲から持ち上がった町の位置を囲む半周の輪中堤状に設計されていましたから、
私は「津波のエネルギーを反らすために連続堤としなかった」と推論を立ててみたところです。



























高さ二間半(約4.5m)、根幅十一間(約20m)、上幅四間(約7.2m。現状は約2m)、
延長五百間(約900m。実際に整備されたのは設計上の西端から約600m)の防浪土堤と松並木が設計されました。

なお、この幅では防風垣の役は果たしても、潮風を上空に飛散させて後背の農地への害を軽減する

防潮の役は果たし難いのではないでしょうか。
町中の大きな屋敷の庭や寺社の境内には今も丈の高い木が散見されますが、

かつてそうした大樹が方々にあったとすると、堤防の木々と庭や寺社境内の木々が相まって
防潮林帯的な効果を果たしたかも知れません。





























土堤の内側に植えられたハゼノキ(Toxicodendron succedaneum)が一部残っていました。
これは、木蝋の材料として換金できるためでした。
その他よく見かけたのはエノキ(Celtis sinensis)やクスノキ(Cinnamomum camphora)です。
























 





土堤の外側にはクロマツ(Pinus thunbergii)が植えられました。
























 




湯浅広港から見た広村堤防(木々の列)。
湯浅湾内にあるため前浜は無く、当初から堤防の位置は平均的な汀線から

最も近いところで10mほどのところとする設計がされていました。

























 



しかし、江上川河口部に拓かれた水田に接したところ(現在は耐久中学校が建てられています)では、
地形なりに港から堤防を遠ざけて築いています。
町は周囲よりやや地盤の高いところに置かれたようですが、元々砂州の上だったのではないでしょうか。



町がのる周囲よりやや高い土地は「自然堤防、砂州、砂丘」に分類されています。広川と江上川に運ばれた砂や礫が堆積した上にそれらが重ねられて持ち上がった土地、というところまでは判ります。出典: 1/50,000土地分類基本調査(地形分類図)「海南」和歌山県(1976)



実際に、広村堤防が築造されたのは、砂州または砂丘の上に町がもうけられた、その前縁部でした。   
安政南海地震津波(1854)と違い、広村堤防築造後に起きた昭和南海地震津波(1946)に際しては、
広村堤防の背後に守られた砂州または砂丘上の町は浸水を免れ、

その周囲の谷底平野は安政南海地震津波の時と同じく浸水被害に遭っています。

























 


広村堤防中央部の鉄扉(通称「赤門」)。
これは改築されたものですが、昭和南海地震津波来週の折には、

この前に設けられていた鉄扉が浸水を防いだとのことです。



























土堤上は近隣に住む方々や観光客らの散策路にもされていました。


































町家の格子には「避難道」の誘導標示が
つけられています。

            






























電柱に巻かれた、
「海抜2m」を伝える標示。
県道175号湯浅広港湯浅停車場線上で

見つけました。



























安政南海地震津波が来襲したのは1854年11月5日でした。
この11月5日は東日本大震災後に「津波防災の日」と指定されましたが、

当日を前に広川町では「梧陵まつり」が開催されていました。
毎年の10月第3土曜日には「稲むらの火」の故事にちなみ、

松明に火を灯して人々が広村堤防の上を歩く「稲むらの火祭り」も行われているそうです。

同町の防災対策は、堤防、水門などの施設整備、避難道の設定と案内、

行事の実施と多岐にわたり、徹底されている印象を持ちました。



























湊仲町の通りから見た広村堤防。



























堤防に面した家屋と畑。






























堤防の上に上がる階段は、
梯子状の通りを縫いあわせるかのような
路地の延長線上にもうけられています。
生活道路が堤防上まで続くことが、

堤防の人間的な高さ、幅と相まって、
海と町が断絶される感じがしません。




























広村堤防の周囲を見渡してみます。
広川で、コトヒキ(Terapon jarbua写真のほぼ中央にいる、背に黒い縞の入った魚です)を見かけました。
この他に、ボラ(
Mugil cephalus)やクサフグ(Takifugu niphobles)を見ました。

コトヒキやクサフグがいるところをみると、塩分濃度はいわゆる河川河口域の汽水よりも

内湾域に近い(ほぼ海水の塩分濃度に等しい)のではないでしょうか。
これは、堤防そのものではなく地域の環境条件の理解に結びつくのみですが…。




























正覚寺の石垣は、角がとれた円礫に近い石を積んでつくられていました。
経験的に、砂岩を主とするものに見えますが、
硬度が高そうに思われる点(川に運搬されながら回転し摩耗するわけですが、
ここまで円くなるまでに砕けずに済んでいるのは、硬度が高いから?)に疑問が湧きました。























川すじの護岸に用いられている石は、
私たちが支援におもむく
石巻市雄勝町で見る粘板岩、
頁岩(どちらも泥岩に由来)のような
理を持ちます。

岩質について考え始めたのは、

広の町がのる土地の地質が
海側に砂が混じり
陸側に礫が多い
自然堤防的なものではないかと
想像したからです。
それが地盤の強度に

関係していないのだろうかと…。
























付記

閘門が整備された
湯浅広港に沿う道路。
奥の堤防の内側には住宅地が置かれた埋立地が…。
これはむしろ、

元の浅瀬における
津波の減衰効果を減じ、  
生活者が危機に遭う
可能性を高めている点で、
広川町の防災政策と相反する
開発例だと私は思います。