2019/02/22

地域にどう向き合うか? 「地域・風土の成り立ちを読み解く」という視点から How can we face each local region?: from a point of view of reading the formation of local milieu




 2019年2月13日に宇都宮大学で開かれたセミナー「学生と社会人による [対話と思考の場 03] 『地域づくり×生き方』の意味を問う」に、私は講師の一人として参加しました。同セミナーは、各地方・地域で自然や社会がどうあるとよく、そのためにどんな生き方、はたらき方が選ばれ、創られてゆくとよいのか…といったことを、徳島県神山町と福岡県福津市の津屋崎千軒でそれぞれ実践をされる西村佳哲さん、山口覚さんと参加者の方々とで語り合うものでした。

 私は昨年の第2回に引き続き、第2時限の講義を担当しました。昨年の演題は「地域の豊かな過去を、地域の未来に生かすには」としていましたが、今年は「地域にどう向き合うか? 『地域・風土の成り立ちを読み解く』という視点から」と少し変えました。「地域の豊かな過去を、地域の未来に生かす」志向に代わりはありませんが、その当事者、主体となる地域の生活者と専門技術者・研究者である自分の関係の持ち方などについて少しずつ考え方が変わってきている (見定められてきているとも思います) ことの反映となります。レジュメの本文を載せてみます。


1. はじめに
 

 私の仕事は、街路や公園などを設計する「環境デザイン」といいます。それらは、ある地域の部分となります。だから、できるだけ私が過ちを犯さないように地域を歩き、人々の思いや考えを聴き、そうして得た情報を共有しながら人々と地域の理解を深め合い、共にふさわしい将来を構想してゆきたいと考えるようになりました。

 その中から「地域・風土の成り立ちを読み解く」という視点を持つに至りました。この講義で、それについてお話しします。



払川集落 (宮城県南三陸町) の風土の構造を考えるために描いた絵。
廣瀬俊介「南三陸の風土と生きる」『南三陸の森里海』 (山内明美編・発行,2018年) 20-21頁



2.  地域に向き合うことの意義
 

 地域に向き合うとは具体的に、地域の自然と人々のこれまでと現在に向き合うことをいいましょうか。そこから人々のためになりそうなことを発見し、それを実際に試み、その結果を省みながら地域はよりよくしてゆけるのではないでしょうか。

 そのようにある地域のために、ひいては他の地域のためにもなるように生きることは、続く世代の幸福や人間社会の持続そのものを考えると、本当は人が生きてはたらく上でどの場合においても必要なのではないでしょうか。 



3.  地域にどう向き合えるのか?
 

 地域は、そこにある自然に人間が暮らしと生業を通してはたらきかけてきた結果としてかたちづくられています1) 。そして、自然そのものや自然物が残る割合が多いほど人々はそこに風土を見出だしやすいように、私には思われます。
 

 地域・風土には、主に自然と人間にかかわるさまざまなものやことがあり、それらは関係し合っています。さまざまなものやことは地域・風土の成因と見ることができ、これらの成因と成因間の関係から地域・風土はかたちづくられていると考えられます。それは、地域・風土の成り立ちともいえます。

 地域・風土を知ることとは、その成り立ちを読み解くことに当たると、私は考えます。そこにあるものやことのそれぞれを知るだけでなく、ものやことの関係も知ることで初めて地域・風土の中の問題や可能性がどのような構造の中にあるのかがわかり、それらを表面的にでなく根本から扱うために課題や仮説を確かに立てることが行い易くなるとも、私は考えています。
 

 私は、人間の生存と社会の持続に必須である自然の物質循環を一つの軸に見立てて、地域・風土の成因と成因間の関係を整理しながら、その成り立ちを文脈的に理解する方法をつくってきました。
 まず、それについて説明をします。


1) 薗田稔編『神道』弘文堂、1988年、6頁にある風土の定義を参考とした。「風土は (中略) 自然条件に対して人
間が生業を通して働きかけた結果である。人間が何世代もかけて自然に働きかけて風土を仕立て、その風土がまた人間を育て上げる 」 


4.  地域・風土の成り立ちを読み解く
 

 私たちがその上に生きる大地の生い立ちを辿ることから始めて、地域・風土がどうできてきたか簡単に振り返ってみます2)































 大地のかたち、地形は、地殻や気候の変動、水が地表を削る浸食、そのことで発生した土砂がたまる堆積などを経て現在に到ります。大地の中身、地質は、マグマが地下で冷え固まってできた岩塊や火山灰が固結してできた岩塊、砂や粘土からなる堆積物であったりします。それぞれの岩石は風化速度などの性質を違え、それも手伝って地形は時間と共に変化します。地形はさらに、季節風や海流と相まって地域の気候に影響を与えています。
 

 こうして地域ごとに地形、地質、気候が定まり、それらの環境条件に合った生物が棲みつき、微生物からほ乳類までを含む生態系が生じました。岩のくぼみへ風が吹き寄せたコケ類の胞子が育ち、その遺骸を微生物が分解したものに岩の風化物が混じって土が生成され、そこへ着床した植物の種子が発芽します。やがて光合成に必要な日光の量の多い植物の下に光がより少なくて済む植物が育ちながら、森林や草原が形成されます。それを、他の生物が餌場や棲み場に用います。植物の落葉や動物の糞尿などの生物の老廃物や遺骸は微生物に分解されて土に還り、続く世代の植物や動物の体をつくります。































 このような自然から、人間は生まれ出ました。日本列島では、人間は縄文時代から湿地を田につくり替え始め、後年には河岸に堤防や水防林をもうけるようにもなります。台地や丘や山の林では、薪や炭や堆肥になる落葉や柴を採るためにコナラやクヌギの世代更新を安定させて里山と呼ばれるようになる場所をもうけました。人間の行動範囲に含まれる土地のほぼ全てが厳密には人為的につくり替えられましたが、しかし多様な生物が生きられ、人間は彼らを医療から衣食住の充実までに利用してきました。
 

 人間はまた、自らが暮らす地域で得られる資材の性質や、地域の風雪や日照に則して土木や建築を工夫しながら、社会生活の場となる集落や都市を築いてきました。それらを含むかつての村や町の範囲は、人間の生存と社会の持続に必須である自然の物質循環を念頭において、大小の川に水が集まる集水域などを単位として決められてきました。そうした自然への畏敬の念が信仰に重ねられ、それもまた地域に風土が見出だされる要因となりました3) 

 燃料革命の影響が広く及ぶ以前の日本では、「人間は自然の中に身を置いてきた」といえましょう。それに対して現在はどこまで問題が広がり、まだどのような可能性が残り…ということを、地域・風土の成り立ちの理解の上に確認する作業が肝要となります。


2) 廣瀬俊介『風景資本論』朗文堂、2011年、32-44頁を参照
  http://shunsukehirose.blogspot.jp/2013/04/landscape-as-capital.html
3) 薗田稔『祭りの現象学』弘文堂、1990年、243-315頁。水を養う山とそこから流れ出る川を、生産と産育をつかさどる命脈のように見た人々が各所に神を
 祀り、川の流域を風土と捉え、そうした地域・風土の見方を引き継ぎ受け渡す営みとして祭りを毎年行ってきたことが説明される
 


5.  小説の中の地域風景の描写から
 

 人間の心と地域・風土の関係を知ることも、人間が人間の問題を考える上で欠かせません。それについて、私は実際の経験から学ぶと共に、小説や絵画や音楽や映画や写真などからも学んできました4)
 

 内海隆一郎の小説『欅通りの人々』の舞台は東京近郊の町で、約2kmにわたる欅 (けやき) の並木道に沿って暮らし商う人々が交互に登場し、それぞれの人生が交錯する設定がされています。



 




























 「欅の葉の舞い落ちるのを眺めるのは大好きである。落葉が歩道に敷きつめられた風情も捨てがたいと思っている」「小田さんが落葉を掃くのは、ほかにすることがないからである。欅の木と競っているような気になるのがいい。まるで意地悪しあってでもいるように落葉を降らせたり掃いたりするうちに、欅と遊んでいるつもりになっているのが楽しい」5)
 

 文中の「小田さん」は70歳になるのを目前に控えた男性で、出征から戻ると、妻子をはじめ家族がみな空襲で犠牲になってしまったらしく、以来46年もの間一人暮らしをしてきています。その彼の寂しさが、自然物である欅とふれあうことで紛らわされ、楽しく感じられてもくるという描写がされます。
 

 「歩道沿いの欅と欅のあいだに、つつじの株が植え込んである。そのすべての叢 (むら) が、純白の細い糸でできた大小の繊細な網におおわれていた。欅の下枝も美しい網で飾られていた」「霧の粒をやどしたクモの巣であった」6)
 

 人間が自然物である「欅」「つつじ」7)   を道路に植え、そこへクモが棲みつき、クモの巣に霧の粒がやどされます。人為が加えられた環境の中で起きてはいますが、クモや霧の営み、水の巡りはほとんど自然のできごとであると考えられます。
 

 そして、それらのものやことを見ている人間の目があり、そこから何かを感じ、思い、考える人間の心があります。

4) これらは人間の心の動きを表現することを基本とした営みの成果であり、自分の経験の中で接することのない人間の心理や感情について知る契機契機と
 もなる
5) 内海隆一郎『欅通りの人々』講談社、1994年、10-11頁

6) 内海同書、20頁
7) ニレ科ケヤキ属の落葉高木ケヤキ (Zelkova serrata) 、ツツジ科ツツジ属の街路に植栽される各種 (常緑、半常緑、落葉低木)とも人為的な選択や交雑により

 固定された品種があり、生物ではあっても厳密に自然物と言い切れない面がある。ここでは自ずと然る(そのように在ることの意) 自然と、その中から自
 然を構成する無生物、生物を自然物と分けて認識することを促す意味で、これらの二語を便宜的に用いた



6. ものやことのいずれもが大切…そして…

 「束の間の一瞬でさえも豊かな過去を持っている」。ポーランドの詩人 Wisława Szymborska(ヴィスワヴァ・シンボルスカ) の「題はなくてもいい」という詩8) の一節です。彼女は、この川が「流れはじめたのは今日や昨日のことではない」といい、また「土曜日の前には自分の金曜日があ」るといいます。
 

 どちらも地域・風土の成因に当たり、どちらも大切にしたいと私は考えます。だから、それぞれの地域で各人の「自分の金曜日」が豊かにあるために、川がなぜどのように流れ始めたかから、私は調べたい。

8) ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』沼野充義訳、未知谷、1997年、11-15頁。上に引用した箇所を含む二つの段落をここに載せる
  
http://www.michitani.com/books/ISBN4-915841-51-0.html
 
 束の間の一瞬でさえも豊かな過去を持っている
 土曜日の前には自分の金曜日があり
 六月の前には自分の五月がある

 この木はポプラ、何十年も前に根を生やした
 この川はラバ川、流れはじめたのは
 今日や昨日のことではない
 茂みの中を通る小道が踏み固められてできたのは
 おとといのことではない






カヴァースライド。風土の構造を検討したスケッチを描いた払川集落で写した写真を掲載






















追記:
同セミナーで配布したレジュメは下記研究者検索ウェブサイトよりダウンロードいただけます。 
項目「講演・口頭発表等」をご覧ください。

researchmap 廣瀬俊介
https://researchmap.jp/read0199902/?lang=japanese


当日のレポートが宇都宮大学COC+ウェブサイトで公開されています。執筆は、中村果南子さんによります。
以下に、
私の講義を聞いていただいての一節を引用します。
 

「そうでないと、持続可能な地域づくりということはできないし、その地域の人のものにならないというメッセージを私は受け取りました。地方創生などと言われる昨今、それぞれの地域の良さが改めて見直されている中で、その魅せ方というのはある種画一的なところがあるような気がしています。グルメ、ゆるキャラ、隠れ家的リゾート化でいかに『一時的に訪れる人を増やす』かが『地域活性化』のゴールになっているところに違和感を感じていました。その地域で暮らすのは、その地域であらゆる種類の営みを続けている、その地域の人々であるのに、その存在が軽んじられている気がしていたのです」。
 

宇都宮大学 COC+|学生と社会人がごちゃまぜになって「地域づくり×生きる意味」を対話する
https://cocplus.utsunomiya-u.ac.jp/information/seminar/post-22.html?fbclid=IwAR3yG6oBkykVfBuQVVNjbG_okWuz80EOD5CkWtJ2yCI3QLhiflmRq11kyk8