安政元年(1854)の津波来週時、濱口梧陵は稲むらに
高台の広
この梧陵が、次の津波来週
私費を投じて築造したのが広村堤防(和歌山県有田郡広川町)です。
昭和21年(1
広村堤防は
この時も亡くなられた方々がいました
被害があり、その危険を今村明恒博士(地震学)
また、史料が見つけ
東端は資金難等で広川の堤防に
周囲から持ち上がった町の位置を囲む半周の輪
私は「津波のエネルギ
高さ二間半(約4.5m)、根幅十一間(約20m)、上
延長五百間(約9
なお、この幅では防風垣の役は果たしても、潮風を上空に
防潮の役は果たし
町中の大きな屋敷の庭や寺社の境内には今も丈の高い木が
かつてそうした大樹が方々にあったとす
防潮林
土堤の内側に植えられたハゼノキ(Toxicodendron succedaneum)が一部残っていました。
これは、木蝋の材料として換金できるためでした。
その他よく見かけたのはエノキ(Celtis sinensis)やクスノキ(Cinnamomum camphora)です。
土堤の外側にはクロマツ(Pinus thunbergii)が植えられました。
湯浅広港から見た広村堤防(木々の列)。
湯浅湾内にあるため前浜は無く、当初から堤防の位置は平
最も近いところで10mほどのところとす
しかし、江上川河口部に拓かれた水田に接したところ(現
地形なりに港
町は周囲よりやや地盤の高いところに置かれたようですが
町がのる周囲よりやや高い土地は「自然堤防、砂州、 |
地形分類図を確認して、実際に広村堤防が築造されたのは砂丘上に町がもうけられた、その前縁部であったことがわかりました。
安政南海地震津波(1854)と違い、広村堤防築造後に起きた
広村堤防の背後に守られた砂丘上の町は浸水を免れ、
その周囲の谷底平野は安政南海地震津波の時と同じく浸水被害に遭っています。
防災システム研究所|広村堤防 http://www.bo-sai.co.jp/hiromurateibou.htm |
広村堤防中央部の鉄扉(通称「赤門」)。
これは改築されたものですが、昭和南海地震津波来週の折
この前に設けられていた鉄扉が浸水を防いだとのこ
土堤上は近隣に住む方々や観光客らの散策路にもされてい
町家の格子には「避難道」の誘導標示が
つけられています。
電柱に巻かれた、
「海抜2m」を伝える標示。
県道175号湯浅広港湯浅停車場線上で
見つけました。
安政南海地震津波が来襲したのは1854年11月5日で
この11月5日は東日本大震災後に「津波防災の日」と指
当日を前に広川町では「梧陵まつり」が
毎年の10月第3土曜日には「稲むらの火」の故事にちな
松明に火を灯して人々が広村堤防の上を歩く「稲むら
同町の防災対策は、堤防、水門などの施設整備、避難道の
行事の実施と多岐にわたり、徹底されている
湊仲町の通りから見た広村堤防。
堤防に面した家屋と畑。
堤防の上に上がる階段は、
梯子状の通りを縫いあわせるか
路地の延長線上にもうけられています。
生活道路が堤防上まで続くことが、
堤防の人間的な高さ、
海と町が断絶される感じがしません。
広村堤防の周囲を見渡してみます。
広川で、コトヒキ(Terapon jarbua。写真のほぼ中央にいる、背に黒
この他に、ボラ(Mugil cephalus)やクサフグ(Takifugu niphobles)を見ました。
コトヒキやクサフグがいるところをみると、塩分濃度はい
内湾域に近い(ほぼ海水の
これは、堤防そのものではなく地域の環境条件の理解に結
正覚寺の石垣は、角がとれた円礫に近い石を積んでつくられていました。
経験的に、砂岩を主とするものに見えますが、
硬度が高そ
ここまで円くなるまでに砕けずに済んでいるのは
川すじの護岸に用いられている石は、
私たちが支援におもむく
石巻市雄勝
頁岩(どちらも泥岩に由来)のような
摂
岩質について考え始めたのは、
広の町がのる土地の地質が
海側に砂が混じり
陸側に礫が多い
自然堤防的なものでは
想像したからです。
それが地盤の強度に
関係していないのだろうかと…。
付記
閘門が整備された
湯浅広港に沿う道路。
奥の堤防の内側には住宅地が置かれた埋立地が…。
これはむしろ、
元の浅瀬における
津波の減衰効果を減じ、
生活者が危機に遭う
可能性を高めている点で、
広川町の防
開発例だと私は思います。