2014/04/03

風土形成論 第1部 - 論文 An essay on formation of milieu Part 1 - discourse



2014/03/22
東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科主催特別講演会
Special lecture at Tohoku University of Art and Design, Department of Architecture and Environmental Design

廣瀬俊介 (ランドスケイプデザイナー、東北芸術工科大学大学院准教授)
Shunsuke HIROSE (Landscape designer Internaional ASLA, Associate Professor of Graduate School of Tohoku University of Art and Design) 




 人間は自然から生れ出た。酸素や水を体内に摂り込み、他の生物を食料、衣料、医薬、その他の用材に利して、人間は生きてきた。産業革命以降の近現代的生活も、きわめて古い時代に生きた生物の遺骸に由来する化石燃料に頼って営まれている。

 産業革命を経た国々においてさえ、人々の多くが自然の物質循環の中に、安全にいた時期があった。しかし、今日、人間は全般に、自然の物質循環や生物生産を阻むことで自らの生存条件の成立を危うくしている。

 そうした自然の物質循環の中からの人間の逸脱は、環境問題と捉えられてきた。本来、その解決の方策の一つとして環境デザインはある。ただし、1872年にアメリカで、世界で初めて国立公園が定められ、1907年にイギリスでナショナルトラスト法が制定されるより以前、1858年にアメリカで呼称されたのが「landscape architecture (風景、建築の意)」であった。19世紀末から近代デザインが勃興して後、それは「landscape design (ランドスケイプデザイン) 」とも呼ばれるようになった。


 アメリカでのランドスケイプデザイン誕生は、ニューヨーク市にセントラルパークが整備されたことを起源とする。工業化と人口集中による居住環境の変質を問題視した当地の人々が市民運動を行い、同市がこれを受けてセントラルパーク整備が決まり、その設計者が自らを「landscape architect」と名乗った。

 彼、Frederick Law Olmsted (フレデリック ロー オルムステッド、1822-1903) は、新しい社会のために庭園、土木、都市、建築など既成の環境形成技術の総合を図ろうとした (後に普及する環境デザインの理念にも通ずる。ただし、オルムステッドのデザインは生態学的に行われたが、環境デザインの対象はほぼ土地の美観と屋外環境利用に矮小化され、その理念とは矛盾して、一般に生態学的環境形成技術として行使されていない)

 この後、彼はボストン市で、市街地を貫くマディ川に工業廃水が流されていたのを止めさせ、洪水に備えて周囲の土地をできるだけ取得するように同市へ提言し、川とその畔の緑地が所々の公園や広場をつなぎ合わせる「エメラルドグリーンネックレス」を構想した。彼はまた、国立公園を各地に増やす運動にも加わった。


 この新しい技術を扱う学会が、わが国では大正14年 (1925) に日本造園学会 (Japanese Institute of Landscape Architecture) として設立されている。それと前後して、ランドスケイプデザインの導入が日本でも試みられてきた。

 同学会会員が作成してきた研究論文群の主題は多岐に及び、時代や人によってはランドスケイプデザインの本質に迫る調査、論考や技術的実践があった。しかし、従来の庭園設計術との混同が生じ、あるいはその後のアメリカでのこれも技術の出自と存在意義を見失ったかのような流行が日本に移植されるなどしながら、この技術は、数少ない例外を除いて、日本列島各地の環境条件への適合に留意されないまま用いられてきた。上に述べた環境デザインの実態と同じように、概して土地の美観創出と屋外活動利用充足に偏った設計術として今日に至る。結果として、その本義はこの国で社会的に認知されていない。

 私も、生態学的環境形成を志向してこの職に就きながら、嗜好を客観的根拠風に言い繕い土地造形にのめり込んだ若い時期を過ごした。当時、環境の人工度の高い都市での業務に主に携わっていたことや、アメリカの造形作家的デザイナーと協働していたことなども影響していたと思う。


 私がランドスケイプデザインの日本的展開の必要を意識しはじめたのは、千葉で育ち東京の企業に勤めていた自分がより北やより南へ業務のため訪れるようになり、列島各地の環境条件、すなわち地質、地形、気候、生物相、およびそれらに関係して編み出された土地と資源の利用技術や民俗、信仰、地縁共同体、生活文化などの違いを知ってからである。これらを比較しながら、それぞれの土地における自然と人間の関係史に目が向くようになった。当地の自然と人間の関係史を理解した上で継ぐべきところを継ぎ、直すべきところを直し、新しい考えを持ち込むべきところについては慎重にそれを試みることが「人間の生を再び自然の物質循環の中に置き直して持続可能にする」環境形成の内容だと得心した。


 「風土」という概念に注目するようになった。人々が土地へ手を入れて暮らしの場をつくり、自然の物質循環の中に身を置いて生きてきた、その全体を中国で「風土」と呼ぶようになった。この言葉と考え方は、遅れて日本に移し入れられた。

 個々人の自らが生きる土地に対する見方は、厳密には異なろうが、あるところまでは見解が一致する。そのように、風土はそこに生きる人々に共有される、彼らが生きる土地、環境、世界の見方であると考えられる。人々が共同で土地の自然と生きようと努め、共に生きる土地の見方を共有することの精神的意義を合わせ、風土は人間が心身健やかに生きるために必要な環境観と価値づけられる。

 自然から生れ出た人間が、その範囲を逸脱せずに生活や生業を通じて自然へはたらきかけ、風土は形成されてきた。風土という環境観が人々に共有される土地において、ランドスケイプデザイン、ないしは生態学的環境形成技術は、風土の全体の理解に努めながらその部分をつくり、風土の継承と進展に寄与するものとして応用されるべきであると、私は考えた。それを「風土形成への環境技術的参加」と整理している。

 風土の理解は、風土形成の主体である生活者と行う。彼らの体験的知識と私たち技術者側が持つ知識、技術とを合わせて環境条件を調べ、伝統的な土地と資源の利用技術の意義を確かめてゆく。風土の姿である風景の意味 (あるいは「人間生存の資本」的価値) を読み、解釈することの先に、それは行える。


 レジュメに紹介した風土形成への環境技術的参加の例は、私が本学の在学生、卒業生、教員有志と設計、施工に取り組む「早戸温泉遊歩道 (福島県大沼郡三島町) 」である。平成19年 (2007)より同町早戸区の人々が只見川左岸に遊歩道を通していたのへ、平成22年 (2010) から参加するようになった。

 私たちは土地に産する木石を集め、土地の伝統技術にならい、路面や切土面が雨水に洗われないように石垣やそだ編柵や雨溝をしつらえ、遊歩道各所の見え方や遊歩道から川への見え方をととのえるなどしている。なお、都市においても、残存する風土の因子と各々の関係に則した設計は可能である。


 風景のスケッチを通して土地の環境条件の理解、より厳密には肉体化を図る。関係者間での情報共有と議論のために、環境条件の視覚伝達表現に留意もする。その上に環境形成、立体造形技術を応用して、風土の継承と進展をめざした総合的問題解決は行える。それが風土形成への環境技術的参加であり、技術者は土地とそこに生きる人々に学び、そこから発想し、かつ当の人々が自らの生きる土地に主体的に関係し続けてゆくことを支えるべきであると考える。その根本には、自然の物質循環があって人間が生き、社会が営めることの実感が求められる。

 専門家は総じて、知識の所有者にとどまらずその社会的行使者であるべきだ。価値基準を鍛え、それに則して行動しなければならない。「実感」は、その動機ともなるであろう。

 おわりに、本講演は早戸温泉遊歩道整備を先導された一人、故目黒卓男氏に捧げます。


                                                20143
                                                廣瀬俊介





 
写真撮影 木村雅彦 Photography by Masahiko KIMURA